Munk(ムンク)の「叫び」

Munk(ムンク)展が兵庫県立美術館で2008年1月19日から始まったのでさっそく見に行ってきた。(4月21日ではもう終了しているので注意してください。)

 残念ながら有名な「叫び:Geshrei(独語:ゲシュライ)」はなかったように思う。昔、ある大学で講義をしていたとき、統合失調症に関して、Munk「叫び:Geshrei(独語)」という作品について話をした。学生に聞くと、多くがあの奇妙な顔のおじさん?が叫んでいるのだと思っていることがわかった。同様にかなり以前のこと、ある放送局のラジオコマーシャルで「コンピューターを用いて、あのおじさんの骨格から考えられる、叫び声を再現したという声」を放送していた。今でも忘れられないあのこっけいな声、なんと!おじさんはかなり低い声で「ホッ、ホッー!」を叫んでいるのだ、そうな!最近の日経新聞にも取り上げられ、この「叫び」の絵の話であのおじさん?が何を叫んでいるのだろうという問いに、ある子供は「キャー、かつらが飛ぶー」と答えたそうな。一部の学者にはこれは「幻聴が聞こえる」ので怖くて耳を押さえているのだという人もいる。?

 フム!名画は種々の解釈ができる!!

 Munk自身は、このモチーフでたくさんの作品を描いていて、ストックホルムの名前は忘れたがある小さな美術館にある小さな作品の中に、メモのようなものを次のように記している。「Ich fuehlte das Gescrei durch die Nature.」(ドイツ語のウムラウトという字がないのでfuehlteは ueでご勘弁ください。) つたないが訳してみると「私は自然から叫びを感じる」と書いてある。?

? 統合失調症の患者さんたちのひとつの症状として妄想気分というものがあり、「周囲の何か異様な雰囲気、何か自分の周囲で奇妙なことが起こっているような感じがする、自分の周囲が奇妙に変化してしまう」といった症状を感じる人たちがいる。難しい言葉で言えば「実存の危機」と言うらしい。病気でない人たちには、決して感じることのできない、理解できない恐怖・不安らしい。?

 Munk統合失調症という病気に罹ることによって、この作品を生み出した。?

3.薬物療法について:その意義

 クロルプロマジンという向精神薬が、こころの病気の患者さんに、使われ始めたのが1950年代初めころからである。以後さまざまの身体的基礎仮説にもとづいて種々の「こころに作用する薬物」:抗不安薬、抗うつ薬、抗精神病薬・・・いわゆる向精神薬が開発されてきた。最近では、薬物療法が一般的に主流になりつつあるきらいがあるのは否めない。1900年代も終わり、この間、約60年の歳月が流れ、効果、副作用などその効用が検証されつつある。
 確かに、過度の不安、興奮、幻覚、妄想・・・などのこころの症状に対して種々福音がもたらされてきた。しかし、人生の苦悩、不安・・・といったものを薬物で治めるといったことが、本当に患者さんの「人生にとって」意義のあることであったのであろうか?
 昔テレビコマーシャルで、たしか「ニッ!ニッ!ニーチェか!サルトルか!み~んな、悩んで大きくなった」というお酒のコマーシャルがあった。病的な苦悩、不安・・・その他の精神症状は薬物療法を行う必要があろう、ただ過剰な効用は本来人間が持つべき苦悩、不安、悩み、疑問・・・を持たなくさせる。「こころの病気」を患い、回復する過程、それを通じて人間は何かを得ることがあるのではないか?
 安易な薬物療法は、人生の意義に対して疑問を持たなくさせてしまう
こころの病気が始まるのが大まかに20歳前後である、人間の平均余命が最近では伸びて80歳前後、一方で向精神薬の臨床応用が始まり、約60年の歳月が流れた。昔の精神科医は向精神薬を「一生続けるようにと言った」と聞く、本当にそうなのか?その必要があるのか?さてまたあったのか?
こころの病気の患者さん、また心の病気でない人々を含めて、本来の「人間の意義ある人生」にとって、薬物療法が本当に意味をもたらしたかどうか?患者さんの本来あるべき「ひとつの生き方」「ひとつの実存形式」を変えてしまったのではないか?
「検証できる時期」が、またさらに言うならば「すべき時期」が訪れているのではないだろうか?

精神療法についての:「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」

多くの患者さんが、精神療法いわゆるカウンセリングには「副作用」がないとおっしゃ。これは間違いであると私は思う。
 しっかりしたカウンセラーあるいは精神療法者が行った精神療法・カウンセリングの場合はわからないが、中途半端なカウンセリング・精神療法を受けてこられた患者さんの場合には、カウンセリング・精神療法を受けてきたことが、すぐにわかる。独特の思考パターン、雰囲気、話の内容・・・があり、私はこれらを、こころに対する「副作用」であると考える。
 こころに対する「副作用」は、薬物による身体への「副作用」に比べより根が深い。というのも、薬物による身体への「副作用」の場合、多くは原因薬物を中止すれば問題は解決する。しかし、こころに対する「副作用」の場合、患者さんは気づかない。一方、うまい精神療法家が行ったカウンセリング・精神療法の場合には痕跡は感じられない。
 患者さんあるいは、心の医者をも含めた多くの方々が、「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」を混同している。人生相談はその相談者の生き方を「指示する」。他方、カウンセリング・精神療法の原則は、「Participant observation:関与しながらの観察」である。すなわち、治療者の基本はその患者さんの「生き方」の検証、「無意識のなかにある葛藤(ストレス)に対する対抗手段の気付き」のお手伝いであって「生き方」の指示はしない。治療者の人生観を押し付けない。あくまでも人生の決断の主体は患者さんであって、人生の決定権は患者さんにあり、またその義務を負う。
 ある患者さん例えばAさんの生き方はその人しかできない、大切な、大切な「一回生起性」「一期一会」の「ひとりの生き方」「ひとつの存在形式」である。Aさんが自身が満足できる人生を過ごすことを大切にすべきであり、治療者は「指示はしない」、「決定のお手伝い」をする。「生き方」の指示あるいは決定をするのは、治療者の人生観を押し付けることになる。中途半端なカウンセリング・精神療法をする人、あるいは受けた患者さんは、生き方の指示を希望し、尋ね直接的な答えがないと満足しない。人生の決定はご自身がされるべきであり、治療者は答えるべきでない。「自分で考えない、自分で決定しない人」になってしまい、人生の結果に対する責任を放棄しようとする。人生の決定には、結果に対して責任がある、誰もが大きな人生の決定はしたくない、人のせいにしたい。
 「人生相談」のようなカウンセリングを受けた患者さんは、治療者がいなくなったらどうするのか?

4.精神療法についての:「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」

多くの患者さんが、精神療法いわゆるカウンセリングには「副作用」がないとおっしゃ。これは間違いであると私は思う。
 しっかりしたカウンセラーあるいは精神療法者が行った精神療法・カウンセリングの場合はわからないが、中途半端なカウンセリング・精神療法を受けてこられた患者さんの場合には、カウンセリング・精神療法を受けてきたことが、すぐにわかる。独特の思考パターン、雰囲気、話の内容・・・があり、私はこれらを、こころに対する「副作用」であると考える。
 こころに対する「副作用」は、薬物による身体への「副作用」に比べより根が深い。というのも、薬物による身体への「副作用」の場合、多くは原因薬物を中止すれば問題は解決する。しかし、こころに対する「副作用」の場合、患者さんは気づかない。一方、うまい精神療法家が行ったカウンセリング・精神療法の場合には痕跡は感じられない。
 患者さんあるいは、心の医者をも含めた多くの方々が、「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」を混同している。人生相談はその相談者の生き方を「指示する」。他方、カウンセリング・精神療法の原則は、「Participant observation:関与しながらの観察」である。すなわち、治療者の基本はその患者さんの「生き方」の検証、「無意識のなかにある葛藤(ストレス)に対する対抗手段の気付き」のお手伝いであって「生き方」の指示はしない。治療者の人生観を押し付けない。あくまでも人生の決断の主体は患者さんであって、人生の決定権は患者さんにあり、またその義務を負う。
 ある患者さん例えばAさんの生き方はその人しかできない、大切な、大切な「一回生起性」「一期一会」の「ひとりの生き方」「ひとつの存在形式」である。Aさんが自身が満足できる人生を過ごすことを大切にすべきであり、治療者は「指示はしない」、「決定のお手伝い」をする。「生き方」の指示あるいは決定をするのは、治療者の人生観を押し付けることになる。中途半端なカウンセリング・精神療法をする人、あるいは受けた患者さんは、生き方の指示を希望し、尋ね直接的な答えがないと満足しない。人生の決定はご自身がされるべきであり、治療者は答えるべきでない。「自分で考えない、自分で決定しない人」になってしまい、人生の結果に対する責任を放棄しようとする。人生の決定には、結果に対して責任がある、誰もが大きな人生の決定はしたくない、人のせいにしたい。
 「人生相談」のようなカウンセリングを受けた患者さんは、治療者がいなくなったらどうするのか?