精神療法についての:「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」

多くの患者さんが、精神療法いわゆるカウンセリングには「副作用」がないとおっしゃ。これは間違いであると私は思う。
 しっかりしたカウンセラーあるいは精神療法者が行った精神療法・カウンセリングの場合はわからないが、中途半端なカウンセリング・精神療法を受けてこられた患者さんの場合には、カウンセリング・精神療法を受けてきたことが、すぐにわかる。独特の思考パターン、雰囲気、話の内容・・・があり、私はこれらを、こころに対する「副作用」であると考える。
 こころに対する「副作用」は、薬物による身体への「副作用」に比べより根が深い。というのも、薬物による身体への「副作用」の場合、多くは原因薬物を中止すれば問題は解決する。しかし、こころに対する「副作用」の場合、患者さんは気づかない。一方、うまい精神療法家が行ったカウンセリング・精神療法の場合には痕跡は感じられない。
 患者さんあるいは、心の医者をも含めた多くの方々が、「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」を混同している。人生相談はその相談者の生き方を「指示する」。他方、カウンセリング・精神療法の原則は、「Participant observation:関与しながらの観察」である。すなわち、治療者の基本はその患者さんの「生き方」の検証、「無意識のなかにある葛藤(ストレス)に対する対抗手段の気付き」のお手伝いであって「生き方」の指示はしない。治療者の人生観を押し付けない。あくまでも人生の決断の主体は患者さんであって、人生の決定権は患者さんにあり、またその義務を負う。
 ある患者さん例えばAさんの生き方はその人しかできない、大切な、大切な「一回生起性」「一期一会」の「ひとりの生き方」「ひとつの存在形式」である。Aさんが自身が満足できる人生を過ごすことを大切にすべきであり、治療者は「指示はしない」、「決定のお手伝い」をする。「生き方」の指示あるいは決定をするのは、治療者の人生観を押し付けることになる。中途半端なカウンセリング・精神療法をする人、あるいは受けた患者さんは、生き方の指示を希望し、尋ね直接的な答えがないと満足しない。人生の決定はご自身がされるべきであり、治療者は答えるべきでない。「自分で考えない、自分で決定しない人」になってしまい、人生の結果に対する責任を放棄しようとする。人生の決定には、結果に対して責任がある、誰もが大きな人生の決定はしたくない、人のせいにしたい。
 「人生相談」のようなカウンセリングを受けた患者さんは、治療者がいなくなったらどうするのか?