こころの病気・障害の治療については、大きな前提を理解しておかないと大きな間違いになる。身体的なレベルの「病気」として同じように、捉えるならばこれは薬物療法が中心である。例えば細菌性肺炎や骨折といった病気ならば、精神療法・カウンセリングを行っても治らない。これは抗生剤あるいはギプスといった薬物療法、物理的な治療が必要であり、どの患者さんにも、どの医者にとっても同じ原因と結果が待っている、因果関係である。つまり 自然科学的な、ものの考え方のみで済む 「1+1=2の世界」であり、どこで、誰が行っても、同じであるはずである。ただ患者さんの苦しさを、自分に当てはめてみて「つらいだろうなーー」何とかして差し上げたいというこころは必要である。
一方身体的に問題がなく、「何かいやなこと、悲しいことがあった」に対する反応の場合、自然科学的なものの考え方のみでは説明できない 薬物療法の 「1+1=2の世界」のみでは割り切れない。
人間の心の反応形式は各人によって異なる。例えば、家族に不幸があったりした場合、「悲しい」「あー、いい人だったのに」と思う人が大半であろうが、中には「ざまあみろ」と思う人、「遺産がたくさんもらえるので喜ぶ」人もいるかもしれない。つまり人間の心の大半の反応形式は、「十人十色」に代表されるように、みな違うのである。
しかし多くの場合、ある出来事に対して、人が示す反応形式はある程度の予想ができる。こういったことを解き明かすのは、心理学的方法論あるいは人生経験といったものであろう。昔「Menschen Kenner」という言葉を聴いたことがある、「人間通」とでも訳すのであろうか?人のこころのひだを心得た人・・・・・必要である。?
ある患者さんがお見えになって、われわれこころ医者が、その方の症状をお聞きする。そうして、この部分は自然科学的薬物療法を中心とすべきか?あるいはこの部分は、心理学的に解釈し、精神療法的いわゆるカウンセリングを中心に、お手伝いすべきか?を判断する。
人生における苦悩、悲しみは薬のみでは解決しないし、またそういう薬物があったとしても、短期的に利用はしても、長い期間にわたって使用すべきでない。
われわれこころ医者は、その自然科学的方法の部分と心理学方法でお手伝いすべきかの、比率を常に念頭においている。これをしないで薬物療法ばかりで対応しようとするこころ医者は「薬物療法妄想」であり、一方精神療法・カウンセリングのみで、対応しようとするこころ医者も「精神療法・カウンセリング妄想」である。
そして、もうひとつは環境的な配慮である。疲れきっている人がいるならば、休息が必要である。こころ・身体の治療とともにわれわれは社会的存在であることを忘れることはできない。