強迫性障害と清少納言

 清少納言(セーショーナゴン でなく、せい しょうなごんと読むのが正しい、康保三年頃(966年) – 万寿 二年頃( 1025年 ?))は 平安時代の女流 作家 、歌人 。本名は清原諾子(なぎこ)という説もあるが、不詳。「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名から採ったとされている。実名は不明、「諾子(なぎこ)」という説(『枕草子抄』)もあるが信ずるに足りない。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。

 『枕草子:マクラノソウシ』は長徳2年( 996年 )頃から本格的に書かれ、最終稿は長保3年(1001年)から 寛弘7年(1010年)の間に完成したと考えられている。京都市東山区 –  百人一首にも採られて有名な「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の歌が刻まれた清少納言の歌碑。清少納言の名が今日まで普く知られているのは、彼女の主要な作品『枕草子』によってである。『枕草子』には、「ものはづくし」( 歌枕 などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、彼女が平安の宮廷ですごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。 (以上の出典はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を抜粋、改変)
 病跡学(びょうせきがく)的な一部の説に??清少納言には、強迫性障害(強迫性障害については「フェイルセーフと強迫障害」を参照)があったという人がいる。
? 彼女は寝る前になると「ばかばかしいな~」と思いながらも、寝所の布団、枕をきれいにたたみ、徹底的に掃除をし、そして確認をし枕を「トントン・・・・・」と、8回叩かないと寝られなかった、これは7回であっても、9回であってもだめで8回でないとだめであったという、末広がりの8である。こういう状況を強迫儀式と呼ぶ。
? このような、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、彼女が平安の宮廷ですごした間に興味を持ったものを書きつづった。
? これが「枕掃除:マクラノソウジ」であるといわれている。??
? 「よもやま話」、信じないほうがよい説である。

強迫性障害とフェイルセーフ

機械工学の設計思想のひとつに、フェイルセーフというものがある。
「フェイルセーフとは、なんらかの装置、システムにおいて、誤操作、誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御すること。
またはそうなるような設計手法で信頼性設計のひとつ」。
これは装置やシステムは必ず故障する、あるいはユーザは必ず誤操作をするということを前提にしたものである。機械は壊れたときに自然にあるいは必然的に安全側となることが望ましいが、そうならない場合は意識的な設計が必要である。たとえば自動車はエンジンが故障した場合、エンジンの回転を制御できないような故障ではなく、回転が停止するような故障であれば車自体が止まることになり安全である。鉄道車両は、(空気圧で動作する)ブレーキに故障があった場合、非常ブレーキがかかるように設計することがフェイルセーフとなる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
一方で、強迫性症状とは、「ばかばかしいとはわかっていながらも、考えてしまうこと、あるいは行ってしまう行為」、例えば「玄関の鍵をかけたはずであるのに、かけたかどうか気になって仕方がない、ガス栓は閉めたかどうか、電気のスイッチを切ったかどうか・・・・・」気になって仕方がない。  何回も何回も確認しなければ気になって仕方がない。よくある話である。皆様方もご経験があるであろう。私も多々気にかかるほうである。だからこんな時には、誰かに確認してもらうことにしている。このような、症状は、人間の心の調子あるいは身体的調子が悪くなると強迫症状が出てきやすくなる。
ここで、先ほどのフェイルセーフを人間の場合に当てはめてみると、人間を機械にたとえるのはどうかと思うが、人間は非常によくできている「心の調子が、あるいは身体的調子が悪い」と強迫症状はよく出てくる。つまり人間にはこのようなフェイルセーフの設計思想が、DNA上に組み込まれているのである。強迫症状があるご本人はつらいことが多いがこれはフェイルセーフなのである。
治療として、私は、薬物療法この症状をある程度で軽減した上で、もう一方で精神療法的には、褒めることにしている、「あなたはそれだけきっちりした、几帳面な人なのですよ、安全装置がはたらいている人なのですよ!!」多くの方に、「気になるくらいであれば、大いに確認をおやりなさい、次第に自信がついて苦しさが軽減して行きますから」と説明する。多くの患者さんは、はじめは信じてくれないが、何回もしているうちに確かに!!と思ってくれるようである。多くの方が少しほっとしてくれる。

6.うつ病になりやすい性格傾向:「努力してさぼります」話

古典的な意味での「うつ病」患者さんは独特の性格傾向がある。確かに日常うつ病患者さんと接しているとしばしば感じる。?

とにかく、まじめ!!!、几帳面、熱中性、仕事熱心、凝り性、正義感などが 1930年代に、下田という人によって指摘されていて、全くその通りである。少し遅れてドイツでもテレンバッハという人が同様の性格傾向 として 「メランコリー親和型」ということを唱えた。ドイツ人と日本人のメンタリティーはよく似ているのであろうか、その他の国ではあまりこのような研究はない。さらにもうひとつ、「対他的配慮」つまり自分の周囲の人に対して細やかな気遣いをする、ということを笠原先生という人が唱えている。?

 Aさんは典型的な「うつ病」の方である。まじめ一方、仕事が趣味のような方、人から仕事を頼まれると断れない、一度始めた仕事は徹底的にしないと気がすまない。仕事は120%する。つまり頼んだ相手の期待以上の仕事をしてくる。そんな、こんなで社会的評価は高い、このため「あの人に任せておけば・・・・」というのですぐにみんなに頼られる。「対他的配慮」があるので仕事を頼まれると断れない。結局、がんばりすぎてへばって当院へやってきた。 ?

 多くの場合、このタイプのうつ病の方は、比較的薬物療法がよく効く、1-2週間でかなりよくなったので、再発防止の意味で「うつ病の方の性格傾向」の話をした。社会的には十分過ぎるくらいがんばっているので、あまりがんばりすぎず、仕事も適当に手を抜くように説明した。?

 生真面目なAさん曰く、「努力してさぼります」・・・・とのこと、「ウームどうもわかっていないようだな~」、致し方なし。 

 「Geduld, Geduld, immer wieder Geduld: ドイツ語:辛抱、辛抱もう一回辛抱:私が心の医者になって最初に習ったドイツ語:患者さんがどうもわかってくれていないようでも辛抱しなさいというこころ医者への格言」を、心の中で唱えながら、さらに丁寧にもう一度「うつ病の方の性格傾向」の話をし、、「努力してさぼります」は、「なんか変ですね」と水をむけると、やっと気がついたのか、二人で大笑い。?

 最近やっと自分のペースをつかめてきたとのことである。

心療内科の病気全般について:基本的な考え方:心理学との相違

心療内科でお手伝いする病気はおもに3種類あります。

1)からだの病気がもとになって出現してくるもの(身体因)
2)何か原因がはっきりしないが、どうも体の中の何かの異常が起こっているが今のところ原因がわからないもの(内因)
3)何か心理的につらいことがあってその反応として生じてくるもの(心因)
例えば、広い意味での、「うつ病」「うつ状態」と呼ばれるような症状はこの1)-3)どのような原因でも生じてくることがあります。このため診断を考えてゆく際には、1)をまず疑い、次に2)最後に3)の順で考えてゆきます。これをたまねぎの皮むきにたとえて「皮むき診断:peel diagnosis」と呼びます。

広い意味での「うつ病」について説明いたしましょう。

1)の体の病気にもとづく「うつ」について、最近では、先の診断の項目でも書きましたように、心療内科を訪れる多くの患者さんは、その他の医院・病院さんで身体的な検査を受けてからこられます。実際当クリニックでは問診を十分にしておりますと、ほとんどの方が検査を受けてからこられていますので、前の病院の結果をお聞きするだけのことが多く、ご本人とも相談した上、血液検査などを行うことはほとんどありません。

つまり2)と3)の違いを見る必要があります。この違いはかなり難しく、初めて受診された方から十分な問診が必要となります。ただし、慣れた「心の医者」ならば症状を十分お聞きすれば、その違いは大体の察しがつきます。それに応じて問診の仕方、方向性も変わってきます。
2)の場合、いくら聞いてもそのきっかけとなるような出来事が見当たらない。ただし、これらにも例外的な患者さんたちがいます。例えば「昇進うつ病:職場で自分地位があがってうれしいはずなのにうつになってしまう」「燃え尽きうつ病:苦労してやってきた仕事が完成して、本来はうれしいはずなのにうつになってしまう」「婚約期うつ病:婚約してうれしいはずなのに何か元気が出ない、うつになってしまう」・・・・・こんな例はたくさんありますのでうつ病の項目で書いてみたいと思います。

3)の場合「あ~そうか~、この人はこんなつらいことがあったんだな~」と自分の心に思い浮かべて「自分でもこんなことがあったらそうなるだろうな~」など、治療者が「お疲れ様です、ご苦労様でした」とお声をかけたくなるような共感できる事柄がある場合です。ただしこれも治療者の人生経験などによって大きく変わってきます。 例えば「子煩悩:コボンノウ」とカタカナで読めば、なんともない響きですが漢字で書けばなんと「子煩悩:なんと煩悩なのです:親子関係、子供に対する親の気持ちなどは、子供を持ってみなければわからないでしょう。こういった治療者の人生経験の相違によって、診断も治療もやっぱり変化するでしょう。
このためわれわれ「心の医者」は、種々の人生経験を経てみる必要があるでしょう。