クロルプロマジンという向精神薬が、こころの病気の患者さんに、使われ始めたのが1950年代初めころからである。以後さまざまの身体的基礎仮説にもとづいて種々の「こころに作用する薬物」:抗不安薬、抗うつ薬、抗精神病薬・・・いわゆる向精神薬が開発されてきた。最近では、薬物療法が一般的に主流になりつつあるきらいがあるのは否めない。1900年代も終わり、この間、約60年の歳月が流れ、効果、副作用などその効用が検証されつつある。
確かに、過度の不安、興奮、幻覚、妄想・・・などのこころの症状に対して種々福音がもたらされてきた。しかし、人生の苦悩、不安・・・といったものを薬物で治めるといったことが、本当に患者さんの「人生にとって」意義のあることであったのであろうか?
昔テレビコマーシャルで、たしか「ニッ!ニッ!ニーチェか!サルトルか!み~んな、悩んで大きくなった」というお酒のコマーシャルがあった。病的な苦悩、不安・・・その他の精神症状は薬物療法を行う必要があろう、ただ過剰な効用は本来人間が持つべき苦悩、不安、悩み、疑問・・・を持たなくさせる。「こころの病気」を患い、回復する過程、それを通じて人間は何かを得ることがあるのではないか?
安易な薬物療法は、人生の意義に対して疑問を持たなくさせてしまう。
こころの病気が始まるのが大まかに20歳前後である、人間の平均余命が最近では伸びて80歳前後、一方で向精神薬の臨床応用が始まり、約60年の歳月が流れた。昔の精神科医は向精神薬を「一生続けるようにと言った」と聞く、本当にそうなのか?その必要があるのか?さてまたあったのか?
こころの病気の患者さん、また心の病気でない人々を含めて、本来の「人間の意義ある人生」にとって、薬物療法が本当に意味をもたらしたかどうか?患者さんの本来あるべき「ひとつの生き方」「ひとつの実存形式」を変えてしまったのではないか?
「検証できる時期」が、またさらに言うならば「すべき時期」が訪れているのではないだろうか?
精神療法についての:「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」
多くの患者さんが、精神療法いわゆるカウンセリングには「副作用」がないとおっしゃ。これは間違いであると私は思う。
しっかりしたカウンセラーあるいは精神療法者が行った精神療法・カウンセリングの場合はわからないが、中途半端なカウンセリング・精神療法を受けてこられた患者さんの場合には、カウンセリング・精神療法を受けてきたことが、すぐにわかる。独特の思考パターン、雰囲気、話の内容・・・があり、私はこれらを、こころに対する「副作用」であると考える。
こころに対する「副作用」は、薬物による身体への「副作用」に比べより根が深い。というのも、薬物による身体への「副作用」の場合、多くは原因薬物を中止すれば問題は解決する。しかし、こころに対する「副作用」の場合、患者さんは気づかない。一方、うまい精神療法家が行ったカウンセリング・精神療法の場合には痕跡は感じられない。
患者さんあるいは、心の医者をも含めた多くの方々が、「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」を混同している。人生相談はその相談者の生き方を「指示する」。他方、カウンセリング・精神療法の原則は、「Participant observation:関与しながらの観察」である。すなわち、治療者の基本はその患者さんの「生き方」の検証、「無意識のなかにある葛藤(ストレス)に対する対抗手段の気付き」のお手伝いであって「生き方」の指示はしない。治療者の人生観を押し付けない。あくまでも人生の決断の主体は患者さんであって、人生の決定権は患者さんにあり、またその義務を負う。
ある患者さん例えばAさんの生き方はその人しかできない、大切な、大切な「一回生起性」「一期一会」の「ひとりの生き方」「ひとつの存在形式」である。Aさんが自身が満足できる人生を過ごすことを大切にすべきであり、治療者は「指示はしない」、「決定のお手伝い」をする。「生き方」の指示あるいは決定をするのは、治療者の人生観を押し付けることになる。中途半端なカウンセリング・精神療法をする人、あるいは受けた患者さんは、生き方の指示を希望し、尋ね直接的な答えがないと満足しない。人生の決定はご自身がされるべきであり、治療者は答えるべきでない。「自分で考えない、自分で決定しない人」になってしまい、人生の結果に対する責任を放棄しようとする。人生の決定には、結果に対して責任がある、誰もが大きな人生の決定はしたくない、人のせいにしたい。
「人生相談」のようなカウンセリングを受けた患者さんは、治療者がいなくなったらどうするのか?
4.精神療法についての:「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」
多くの患者さんが、精神療法いわゆるカウンセリングには「副作用」がないとおっしゃ。これは間違いであると私は思う。
しっかりしたカウンセラーあるいは精神療法者が行った精神療法・カウンセリングの場合はわからないが、中途半端なカウンセリング・精神療法を受けてこられた患者さんの場合には、カウンセリング・精神療法を受けてきたことが、すぐにわかる。独特の思考パターン、雰囲気、話の内容・・・があり、私はこれらを、こころに対する「副作用」であると考える。
こころに対する「副作用」は、薬物による身体への「副作用」に比べより根が深い。というのも、薬物による身体への「副作用」の場合、多くは原因薬物を中止すれば問題は解決する。しかし、こころに対する「副作用」の場合、患者さんは気づかない。一方、うまい精神療法家が行ったカウンセリング・精神療法の場合には痕跡は感じられない。
患者さんあるいは、心の医者をも含めた多くの方々が、「カウンセリング・精神療法」と「人生相談」を混同している。人生相談はその相談者の生き方を「指示する」。他方、カウンセリング・精神療法の原則は、「Participant observation:関与しながらの観察」である。すなわち、治療者の基本はその患者さんの「生き方」の検証、「無意識のなかにある葛藤(ストレス)に対する対抗手段の気付き」のお手伝いであって「生き方」の指示はしない。治療者の人生観を押し付けない。あくまでも人生の決断の主体は患者さんであって、人生の決定権は患者さんにあり、またその義務を負う。
ある患者さん例えばAさんの生き方はその人しかできない、大切な、大切な「一回生起性」「一期一会」の「ひとりの生き方」「ひとつの存在形式」である。Aさんが自身が満足できる人生を過ごすことを大切にすべきであり、治療者は「指示はしない」、「決定のお手伝い」をする。「生き方」の指示あるいは決定をするのは、治療者の人生観を押し付けることになる。中途半端なカウンセリング・精神療法をする人、あるいは受けた患者さんは、生き方の指示を希望し、尋ね直接的な答えがないと満足しない。人生の決定はご自身がされるべきであり、治療者は答えるべきでない。「自分で考えない、自分で決定しない人」になってしまい、人生の結果に対する責任を放棄しようとする。人生の決定には、結果に対して責任がある、誰もが大きな人生の決定はしたくない、人のせいにしたい。
「人生相談」のようなカウンセリングを受けた患者さんは、治療者がいなくなったらどうするのか?
認知症とFail Safe
再びFail Safeとこころの障害について書きます。今回は認知症との関連です。
基本的には「人間も、何か障害ができた時には、なんらかの装置、システムにおいて、誤操作、誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御すること。またはそうなるような設計手法で信頼性設計のひとつ」。詳しくは前回の強迫性障害とFail Safeを見てください。
よく認知症初期のお年寄りが、「財布を取られた、預金通帳を取られた」と、家族に連れられお見えになります。「嫁がお金を取っていった・・・・」などといったことになり、ご家族内でもめることがしばしばあります。
精神病理学的に分類し、字面を簡単にみれば、「被害妄想」ということになるのでしょう。「被害妄想」というので、その手の薬物療法をする医者もいます。
こんな場合、以前に述べた「Geduld, Geduld, immer wieder Geduld: ドイツ語:辛抱、辛抱もう一回辛抱:私が心の医者になって最初に習ったドイツ語:患者さんがどうもわかってくれていないようでも辛抱しなさいという、「こころ医者」への格言」と、唱えながら、もう一度さらに一歩踏み込んで、時間をかけて、このようなお年寄りの話をお聞きすると、「大切なものだから、誰にもわからないように仕舞っておいた、仕舞ったがその場所がわからなくなった」つまり誰にもわからなくなったのであります。確かにご本人は目的を達したのであります。
多くの場合、ご家族にお願いして、家の中を探して頂くと、家の中の普段ご本人が大切なものを仕舞っておく場所から出てきます。つまり他人さんに盗られる事はなくなるというfail safe機能が働いたのです。
認知症の初期の中心的症状は、「記銘力障害つまり昔のことは覚えているが、新しいことが記憶に残らない」です。
わたしは、これも人間に備わったFail Safeのひとつと考えます。ご家族にもそのように説明して、家の外でなくしてくるよりは、家の中で多くの場合見つかるのですから、Fail Safeのお話をして、その機能が働いているのですよ、と説明しておきます。ご家族もそれなりに納得いただければ、ご本人とトラブルにならず、薬物療法をせずに済むことが多々あります。
ご高齢の方に薬物療法を行う際には、若い人より副作用が出やすく要注意が必要です。チョッとした機転あるいは知識で家族円満にすごせます。